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平成27年5月 舟遊プランで世界遺産も訪ねる旅 エピローグ

この記事はこちらからの続きです。



幼少の頃、近所のおっさんでやたらと幕末の新選組の活躍に入れ込んでいたり、その他幕末藩士の活躍に陶酔している人がいました。
冷めたあまり可愛くないガキだった私は、何がそんなに楽しいのやらと思っていましたが、それでも最近年を食うと妙に歴史に興味を持つようになってきました。
今回の天草をまわる旅はこの地域でどうして島原・天草の乱(以下島原の乱)がおきたのか、その後どのように復興していったのか、個人的に興味を持ったから行ってきた次第です。

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(写真は原城攻略の様子を描いた島原陣図屏風。)

ウィキペディアを参照すると、「島原の乱は、松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、これに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害まで加わり、両藩に対して起こした反乱である。」と書いてあります。

「松倉勝家が領する島原藩」については今回触れないでおきますが、「寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島」についてはちょっとだけ調べてみました。
まず素朴にどうして肥後天草諸島が現在の佐賀県北部にあった唐津藩の飛び地になったのか調べてみました。



そもそも唐津藩の起こりは寺沢堅高の父寺沢広高が豊臣秀吉に仕えており、その業績から現在の佐賀県唐津市周辺の唐津藩約8万石の領土を与えられたことから始まったようです。
寺沢広高は豊臣秀吉の死後、徳川家康に近づき、関ケ原の合戦においては東軍側に与し、その功績から天草4万石を加増されました。

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写真は天草諸島。

その「天草4万石」というのが後世に渡っていろいろなトラブルの原因になったようです。
寺沢広高は天草の石高が4万石であるという考えからこの地の領民に課税しました。しかし実際の天草諸島内の米の生産高はせいぜい2万石程度のしかありませんでした。
年貢収得率を五公五民とすると、農民たちの手元にはほとんど何も残らず、たちまち生活は困窮しました。

更にもともとこの地域は関ケ原の合戦に於いて、石田三成率いる西軍側に与した大名家がいた地域でした。徳川幕府が開かれると、これら大名家は冷遇され、他地域へ移封されます。そのためこれら大名家に仕えた浪人たちが多数残る結果となり、同じく不満を持つ土着領主である天草氏・志岐氏の与党も存在していました。

島原で一揆が起こるとそれに呼応するように、これら浪人、与党も立ちあがります。そして徳川幕府によって厳しい弾圧を受けているキリスト教信者を引き連れて反乱がおきたと考えられているようです。(以上島原の乱の概説です。)


それからもう一つ疑問に思う事がありました。

そもそもなぜこの時代にキリスト教とその信者は豊臣秀吉や徳川家康以降の徳川幕府によって弾圧されたのか?

小学校で歴史を習いだした頃、この手の質問をしたことがあります。その時の回答が「神の前ではみな平等と言う考え方が不都合だったからじゃね?」だったと思うのですが、何となく納得したようなしなかったような・・・
 
せっかくネットでいろいろな情報が手に入る時代になったのだからその辺も調べてみました。

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豊臣秀吉は当初は織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していました。

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(写真は福岡市箱崎にある箱崎大社)
しかし九州平定後の1587年、筑前箱崎(現在の福岡市東区箱崎)に於いて、伴天連(バテレン)追放令を発令しました。
その理由は以下の通り。

①キリスト教が拡大し、一向一揆のように反乱を起こすことを恐れたため。
かつての主君織田信長は一向一揆に苦しめられていました。一向一揆はその構成員は身分の低いものが中心でしたが、キリスト教は地方大名のレベルまで浸透しているため(いわゆるキリシタン大名)、万一蜂起することになれば由々しき事態になると考えたからでした。

②神道・仏教への迫害を好まなかったため。
当時九州のキリシタン大名たちは領民に対して強制的にキリスト教に改宗を迫ったり、領内の神舎仏閣を破壊したりしました。
そして宣教師たちもキリスト教信者たちが神舎仏閣を破壊したり、仏教徒や神道徒たちを迫害することをとがめなかったの事実だったようです。

③ポルトガル人商人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。
これはなかなかインパクトがあったのですが、九州のキリシタン大名たちはヨーロッパからの良質な火薬や工芸品欲しさのために日本人同胞を奴隷として輸出していました。
九州平定時にこれを目の当たりにして激昂したとかしなかったとか・・・

④秀吉が有馬(キリシタン大名家)の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであることを理由に拒否したため。
???これはよく分からないww 真実だとしたらかなり了見が狭いおっさんな気がしてならないwww
・・・と思ったのですが、誤って後世に語り継がれたことのようです。(ああ、びっくりした。)

とにかく秀吉は当時の日本イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに②の迫害をやめさせるように伝えたところ、コエリョはスペイン艦隊が自身の指揮下にあるように誇示し、逆に武力行使することをちらつかせたことも秀吉が態度を硬化させていく一因になったようです。

その後天下統一を果たした家康もまたキリスト教の布教は禁止の方針を打ち出し、徳川幕府はこれを弾圧しました。

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(写真は踏絵の様子。)
小学生の頃は歴史で戦国時代末期から徳川の時代にかけてのキリスト教弾圧を習った時は、時の権力者による一方的な言いがかりで信仰する宗教を否定され、弾圧を受けたという印象を持っていました。しかしこうやって歴史的な史実を調べて行くと、それなりに弾圧を受けるだけの理由があったこともうかがい知れました。



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(写真は島原の乱に置いて実際に使用されていたと伝えられている天草四郎陣中旗。)(天草キリシタン館所蔵品)

さて、島原の乱以降の天草諸島はどうなったのかと言うと、島原の乱では原城に籠城した約3万7千人のうち内通者1名を除く全員が老若男女関係なく討ち取られるなど、幕府に反逆したものとして徹底的に根絶やしされてしまいました。天草諸島内でも島によっては殆ど住民が居なくなったものもあったようです。
ただ徳川幕府はそれをそのままに放置することは無く、事後処置に講じたことも分かってきました。

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そんなこんなのうんちくを繰り広げて天草諸島に入ったところから始まります。

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天草四朗メモリアルホールなんかの前を通過して(時間が落ちていたのですみません)

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宿泊地の天草下田温泉に向かったのですが、徳川幕府の施した事後処理のあれこれを見るために訪問したいところがありました。

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まずはこちらです。
正覚寺です。

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キリシタン布教の中心であった「南蛮寺」、キリシタン教会の跡地に、島原の乱以降にこの正覚寺が建立されたものです。
正覚寺が元南蛮寺の跡地に建てられたという言い伝えがあったのですが、近年まで確証は無かったようです。
しかし昭和60年の本堂建て替えに伴う発掘調査で土中からイエズス会の略紋章であるIHSという文字と十字が刻まれた墓碑基が出土した事でそれが証明されたようです。

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本堂に上っていく道です。

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本堂は近年に新しく建て直された建物なのですが・・

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入り口の建物はなかなか風情がありました。

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「司」という文字に見えるのですが・・・はて??
何となく長年土中に埋もれていたものとしては綺麗すぎるし、年代も新しいそうだと思っていましたが、それで正しかったようです。(建て替え前の本堂のものでしょうか?)
イエズス会の紋章の入った墓標は少なくともこの時は屋外には出されていなかったようです。

因みに、このお寺の本堂はキリシタン教会跡地に建てられたと言っても、かつての教会のあった位置の横に建てられており、一定の配慮があったと推測されるものだったようです。

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その後東向寺という寺に向かいました。

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ここも天草の乱の後、復興のために作られたお寺と伝えられています。

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伺った時には屋根の葺き替え中で残念ながら中を見ることはできませんでした。

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もしも中に入れるとしたらこんな格天井を見ることが出来たんですけどね。

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何となく不思議だったのが何故か聖徳太子像??があったこと。(逆光状態ですが、確かに聖徳太子像と書いてありました。)

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屋外にこんなものが安置されていましたが、最近こういうものを持ち去る人が居るからちゃんとした方が良いと思う。

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そして最後にこんな神社に寄りました。

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「鈴木さま」を祀る鈴木神社です。

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参道を通って行くと・・

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こんな感じでした。

この鈴木神社は島原の乱以降、幕府直轄天領となった天草諸島の初代代官鈴木重成を祀った神社です。
鈴木重成は島原の乱鎮圧後もこの地に残り、戦後処理を任されていました。

教会は取り壊され、人口が激減、また残った人たちの心も荒みきっていました。寺社を再建し、それが人々の心のよりどころとなって穏やかに生活できるようにと天草の地域再建に努めたようです。

と言った訳で、上記の2つのお寺は鈴木重成公が復興したものです。

その他天草諸島内への移民推進、漁業開発、医師派遣など様々な政策を打ち出しますが、やがて天草の石高に疑問をいだき再検地をさせます。ここで天草諸島は石高2万1千石が適正と分かり、徳川幕府に石高半減を願い出ました。

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(写真は江戸城)

しかし幕府は前例がないことを理由に鈴木重成の申し出を却下。
すると重成は江戸城内で訴状を遺して自刃を遂げました。 本来城内自刃は家名断絶処分だったのですが、重成の天草での功績と人望の厚さからもはや天草の統治は鈴木家無くしては困難と判断し、重成の養子重辰(しげたつ)を2代目代官に任命しました。

重成自刃が天草諸島内に伝わる事は影響が大きいと判断され、当初は江戸で病死したと伝えられました。しかしやがて島民の生活を守るために自らの命を絶ったのだと伝わると、重成は「鈴木さま」と崇められるようになりました。

その後2代目重辰の時代についに石高半減が認められ、養父重成の遺志を引き継ぎ天草復興に尽力しました。また重辰の後を継いだ実子正三もまた天草復興に尽力しました。
島原の乱の舞台にもなった天草諸島内において鈴木重成・重辰・正三の三公を神様として鈴木神社が建立され、天草諸島内30数カ所に分祀されたようです。






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ところでどうしてキリスト教布教がもめたのか?

先の豊臣秀吉の伴天連追放令を出す遠因にもなった可能性のあるイエズス会宣教師のガスパール・コエリョについてですが、秀吉はガスパール・コエリョに「なぜ神仏の寺院を破壊し、その像を焼くのか」と質問しています。それに対してコエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。彼らは、(中略)神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」(ルイス・フロイス「日本史 4」)と回答しています。

ずいぶんと極端な事を言うやつだなぁと思ってしまうのですが、よくよく考えてみるとキリスト教は一神教です。
自分たちの信じる神様以外を一切認めないスタンスです。(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がその典型とされています。)

私たち日本人が海外の人に「どんな神様を信じていますか?」と問われると返答に困ると思うのですが、日本人の宗教観は一般に多神教とされているようです。

八百万
所謂(いわゆる)八百万の神を等しく敬います。

各神社にそれぞれに神様がいらっしゃると思うし、大きな山や河川にも神様がいらっしゃるだろうし、最近はトイレの神様もいるなと書こうと思ったら、既に数百年前から「厠の神」の概念はあったようです。
その他にも長く使われている道具にさえも神様が宿るとも考えます。(いわゆる付喪神の概念です。)

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写真は平戸市のキリスト教の教会とお寺が近接して立っている写真。割と有名です。
一神教を信じる人たちにとってはこんな風景も、天草諸島内で鈴木三公が神様になってしまうことも考えもつかないものなのかもしれません。




最後に唐津藩の飛び地、天草諸島の初代藩主寺沢広高について触れてみたいと思います。

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天草諸島内では「寺沢検地による過酷な年貢の取立て・・・」とかなり手厳しい表現が使われます。







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すっげぇ悪い奴なのかなー?と思って調べてみましたが・・・唐津藩本体は寺沢広高が実権を握っていた時代は非常に繁栄したようです。

広高はいわゆる行動派の人物で、まずは自らの行動を持って部下の手本としたようでした。
午前4時に起床、午前6時に登庁、馬場で騎乗してから食事を摂り、その食事も部下とともに一汁一菜を摂りました。
武芸に励むときには粥を常に家臣と食したとあります。

また、江戸から帰国した時は藩内の視察を怠らず、税や労働の不正が無いか常に目を光らせ、自らは質素倹約を好み、技能優れた武士を愛したそうです。実際に藩内には1000石取りの家臣が40人ほどおり、その士風を慕って集まる者も多かったとのこと。

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虹ノ松原
写真は虹ノ松原。

新田開発を行う際は防風林造設(現在の虹ノ松原)をしてこれを手厚く保護・・・

これだけを読むと名君そのものなのですが、そんな人がなぜ2万1千石相当の天草諸島の検地で4万2千石まで盛ったのか??

現在の道路交通網が発展した時代でもでも唐津市から天草諸島への移動は大変です。寺沢広高の命を受けて(広高の目が届かないのを良い事に)すごくいい加減な検地をしてしまった奴がいるのではないかと思ってしまいます(これは私の推測ですが)。
もしかしたら、郷土史研究家の方の意見もあるのではないかと思って調べてみましたが、ネット上では見つかりませんでした。


寺沢家は島原の乱の責を取らされ、取り潰しに遭いました。
天草諸島を唐津藩の飛び地として加増されなければこんな目に遭わなかっただろうにと思ったのですが、なぜわざわざこんな飛び地の領地を持たされたのか?

寺沢家は関ケ原の合戦で東軍側に与したとは言え、外様大名の扱いだったようです。
豊臣家に仕えて少しづつステップアップしていきますが、秀吉の死後家康に近づきます。
元はキリスト教信者でしたが、禁教令が出るとともに棄教して厳しく弾圧するなど、もしかしたら機を見るに敏なタイプだったのかもしれませんが、それを面白くないと思う人もいたのかもしれません。

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家康に「褒美して天草をあげる。(どんなところかよく分からんけど)」と言われても

「飛び地で不便だから別のところが良いです。」とは言えなかったんだろうな、もしかしたら家康が一番の寝業師だったのかなーと思ったのですが、静岡に居て家康を悪く言うのは都合が悪いので、この辺にしておきたいと思います。
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コメント

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No title

こんばんは。かなりさまざまな考察をされておられますね。
日本の為政者がキリスト教を弾圧したのは、布教後に占領されることを感じ取っていたのでは?ということも要因のひとつではないのかと個人的には思っています。
事実インカ帝国はスペインに滅ぼされましたし。。。。

トイレに神様…で笑笑でした。
平安時代、貴族、それも女性
に「 くそこ」と愛情持って
付けた場合もあったそうです。

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No title

島原の乱は支配者側と被支配者側がガチで対決した最後のもので、
その悲惨な結果は双方の立場にある全国の人たちに考えさせるものがあった様子。

以後の“百姓一揆”では、支配者・被支配者側とも銃器は使用しない、
非支配者側は代官所等の物品は破壊しても絶対に武士は傷つけない、
支配者側は取り締まりに木刀等は使用しても真剣は使用しない、
非支配者側を罰する場合はリーダーのみを処罰、死罪の場合は一定の要求を受け入れる、
処刑されたリーダーを義民として祀るのを容認する、
というような“一揆のルール”が確立されることになりますね。

Re: No title

あきらさん、こんにちは。

植民地化された諸外国ではまず宣教師がやってきて、キリスト教を布教して、橋を作ったり、教会を作ったりの勤労奉仕をさせて、港を整備させたら本国から軍艦がやってきて占領するというパターンを踏んでいたことが多かったみたいですね。
いろいろ調べてみたら、秀吉がイエズス会に領土的野心があることに気付いた・・という言葉もありました。

なんだかんだで近世にヨーロッパ諸国の植民地化を免れたのは大したもんだと思ってしまいます。

Re: タイトルなし

サッピエロさん、こんにちは。

私の車もあと20年くらい乗り続けたら神様が宿ってくれるのではないかと思っていますよ。

Re: No title

グレープフルーツさん、こんにちは。

島原の乱はただの農民一揆では無かったようで、原城に立てこもった集団はブログに書いた史実などの事もあって完全武装集団だったようですね。
島原の乱の本気の殺し合いを目の当たりにしてイエズス会は日本の植民地化に消極的になって、宣教師追放令にも比較的素直に従ったという考え方もあるそうです。

種子島に鉄砲が伝来したのが1543年、その後商人が鉄砲を売りつけようと思ってやってきたら、既に自前で大量に作ってしまっていて、戦国末期には日本は世界有数の鉄砲所有量になっていたのだそうです。

No title

こんにちは。

天草4万石は、前領主である小西行長の密交易で潤った分を加算していたのではと思います。
密交易が幕府直轄となり、もともと田が少ないところに相次ぐ天災飢饉が続き、その上、統治能力のない2代目寺沢堅高の条件がそろえば結果は見えていたように思います。

結局、大ダヌキの家康は初めから全て承知で、キリシタン追放と外様取り潰しを狙って、飛び地の天草を唐津につけたのかもしれません。

信長の血脈という文庫本を読んで、僕もなぜ唐津藩が遠く離れた天草を支配しているのかと思いました。
肥後の細川氏あたりが支配するほうが、また違った結果になっていたかもしれませんね。

Re: No title

ゆうなぎさん、こんにちは。

ゆうなぎさんの意見もなるほどなと思いました。このエピローグを作るときにいろいろ調べてみましたが、関ヶ原の戦いの功績から家康より天草4万石を加増されたという記述もあれば、記事の中にあるように寺沢家支配になってから検地で4万石とされたという記述もありました。
時系列がおかしいのであえてその辺は書かなかったのですが、なんとなく筋が通ったように感じます。
豊臣時代は石高は自己申告制でどこの大名家も結構持った数字を出していたからその辺もまずかったような気もします。

家康が大ダヌ○のような気がする点は同意しています。
プロフィール

U-BOAT

Author:U-BOAT
福岡県出身。縁あって静岡県浜松市に住み着いて10年になります。
いろいろなことに挑戦してみたいという気持ちは常にありますが、実力が伴っていません。
凝り性ではありますが、ネットの世界では私よりも知識の深い人はいくらでも居ます。
趣味も旅行を始め、多岐に渡ります。ジャンルにとらわれない少しばかり濃い目のブログを作っていきたいと思います。
ご指導、ご鞭撻よろしくお願いします。 2010年8月

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