平成27年2月 阪九フェリーで故郷を観光する旅 エピローグ
この記事はこちらからの続きです。



今回私の生まれ育った故郷筑豊を観光してきました。
昭和30年代に起こったエネルギー革命により、最全盛期には大小合わせて200から300はあったとされる炭鉱のすべてが閉山、すっかり寂れきった地域と言う認識ではありましたが・・・

NHKの連続テレビ小説「花子とアン」で、加納伝助のモデル伊藤伝右衛門が再び脚光を浴びるようなって、筑豊地方の自治体も町おこしの題材にできないだろうかと頭をひねっているようです。
実際久しぶりに飯塚市周辺を訪れてみたところ、観光用のパンフレットがそこここに置いてありました。
これは私が学生時代には考えられなかったことです。

皆さんも小学校の社会科の授業でも習ったのではないかと思いますが、八幡製鉄所は中国大陸に近く、背後に筑豊炭田があり、容易に石炭を調達できるという地理的なメリットがあったと言うことから当時の洞海湾に面した寒村八幡村に作られました。

それが現在の政令指定都市北九州市の基幹産業となり、筑豊炭田も隆盛を極めます。
そんな筑豊炭田ですが、ところで「筑豊御三家」と言う言葉をご存知でしょうか?筑豊炭田で財を成した地元系資本をそのように称していました。
御三家とは麻生、安川、貝島の三家でした。
その他の産炭地域(北海道、常磐地方など)と違って筑豊炭田は地元系資本が幅を利かせていたのが特徴だと思います。その理由は諸説あるようです。
そもそもこの地域で採れる石炭は江戸時代の福岡藩、小倉藩の頃から製塩のための燃料などに使用され、藩の重要な収入源になっていたようです。

西南戦争で明治政府軍が九州入りした時にこの地域で盛んに石炭が掘られていることが分かり、そこからようやく三井、住友、三菱などの財閥が進出してきたと伝えられています。中央資本の進出が遅れたのが地元系資本が大きくなった主な理由の一つだったという解釈もあるようです。

ちなみに麻生家とは御存じ政治家麻生太郎さんの御実家です。
麻生家は筑豊地方でも重要な優良炭鉱を抱えており、エネルギー革命が迫って来た頃には同地域にある優良な石灰石に目を付け、セメント事業の基礎を作り上げました。

JR船尾駅のすぐ傍にこんなのがあります。現在も盛業中です。麻生グループを中核をなす事業のようです。
セメント業を興したおかげで麻生炭鉱閉山に当たって、殆ど失業者を出さずに済んだようです。
しかし、ただただ儲かることに集中せず、地元への貢献も忘れていなかったようです。

飯塚地区は明治大正時代はきちんと整備された医療機関がありませんでした。炭鉱事故も多く、労働者の怪我も多いことから私財を投じて医療機関を設立しました。
後に炭鉱労働者だけでなく、一般市民へも解放して現在の飯塚病院へと大きくなっていったようです。(注;飯塚病院は新飯塚駅前に立地しており、いかにも市立病院のように見えますが、麻生さんちが経営する個人病院麻生飯塚病院なのです。)

その他飯塚市内に公園等を整備、市に寄付などもしています。(写真は勝盛公園)

そして安川家を創設した安川敬一郎氏が残した業績はと言うと・・

明治専門学校(現 九州工業大学)設立・・・

安川電機設立・・・

黒崎播磨(地元では黒崎窯業の方が通りが良いと思いますが)設立・・・

それから九州製鋼(後の八幡製鉄所)設立・・・
その他九州鉄道創立(現在のJR九州鉄道路線)などなどの業績を残しました。

それぞれに実績を残してこられたようですが、こちらの伊藤伝右衛門さんの立ち位置はどうなるの?という疑問にお答えしますと、いわゆる筑豊御三家が麻生、安川、貝島だとすれば、伊藤家はそれに続く財力を誇っていたようです。
伝右衛門さんの残したものは先のブログ記事に書いたので、改めて書くことはしませんが、今回の旅行の時はあえて近所に通りがかって写真を撮ってきました。

そのひとつがこれ、嘉穂東高校です。

伊藤伝右衛門の土地と建物の寄付によって設立されました。


さらに伊藤伝右衛門邸の付近にある幸袋小学校の講堂です。これも伝右衛門氏の寄付によるものです。
この講堂は観光ガイドマップなどには載せられていません。現存しているかどうかちょっと不安でしたが、見つけたときはおぉっ!まだ遺っているのね!!と喜びました。
違うアングルからも写真を撮りたかったけど、最近は部外者が学校に敷地に踏み入れることは許されず、この1枚しか撮れませんでした。
その伊藤家ですが、昭和に入る頃には福岡県中間市に古河鉱業と共同出資で大正鉱業を設立しました。そして同地区で中鶴炭鉱の経営に乗り出しました。また石炭掘削機械の製造などを行う幸袋工作所を設立、やがて規模を拡大していくなど、両事業とも順調に拡大していきました。
その2つの事業はそれぞれ伊藤家に養子入りした子孫の方々が継承しましたが、その後どうなったかと言いますと・・・

優良鉱床を持つ中鶴炭鉱をもってしても、エネルギー革命の荒波に抗しきれず、多額の赤字を出しながら昭和39年に閉山。それとともに大正鉱業は解散しました。

幸袋工作所は現在幸袋テクノと言う名称で盛業中ではあります。が、しかしどのような経緯があったか分かりませんが(この辺の詳細を記した書物なども目にしたこともありません)、昭和38年に伊藤家は退陣に追いやられます。それとともに幸袋工作所は日鉄鉱業の傘下に入りました。この時に幸袋工作所と伊藤伝右衛門邸は伊藤家の手を離れ、炭鉱実業家としての伊藤家は終焉を迎えたようです。
??・・・なんだかきな臭くなってきましたね・・

それでは御三家の最後の一つ貝島家はどうだったのかと言いますと・・・


こちらも優良鉱床を持つ大之浦炭鉱(福岡県宮若市)や大辻炭鉱(福岡県中間市)などの経営に携わってきましたが、晩年まで炭鉱業専業であったことも災いして昭和51年大之浦炭鉱の閉山を持って会社は解散、消滅しました。

当時本拠地であった宮田町でもその痕跡を残すものは現在の宮田石炭記念館(閉校した貝島家設立の旧宮田大之浦小学校の校舎を利用しています。)とこのバス停の名称のみ。
きっと立派だったんじゃないかと思われる建物も消滅しています。
実は筑豊地区の中央資本経営では無かった中小炭鉱のほとんどすべてが会社整理(または破たん)など、悲惨な末路をたどりました。(ひどいものになるとある日従業員が出勤してみると、炭鉱幹部が夜逃げして会社がもぬけの殻だったり・・・ww)
昭和30年代中ごろからは町中に元炭鉱夫の失業者があふれかえりました。
私も小学校の社会科の授業で地域の歴史としてこれらの史実を教わりました。
こんな悲しい、余り良い話でもないあれこれの事ですが、現在も知る手がかりがあります。

土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集です。
昭和30年代の斜陽化著しい筑豊地区の子供たちを撮った写真集です。


閉山した炭鉱の殆ど廃屋に近いような炭住(炭鉱住宅)に住んでいるこの姉妹を中心に構成した写真集ではありますが、土門拳の「顔が垢じみているから洗っておいでと言ったのだが、顔を洗う金たらいも無かった」と言う注釈も結構身につまされます。

その他いろいろな子供たちが出てきます。
このページはボタ山でまだ燃料になりそうな石炭の燃えカスを探しに来た子供たち。
左のページの女の子は着ているセーターが明らかに小さいのが分かると思います。

内容は注釈を読んだらわかりそうなもの。親御さんが失業してしまって、学校に弁当を持ってこれない小学生が多数いたのです。
その他一家離散もしくは育児放棄のため、乳児院に集められた子供たちの写真・・・
何も考えていない小学校時代の私でも、少なくとも実家は裕福な方だと言うことは分かっていたので、さすがに子供の頃はとうとうこの写真集を手に取って見ることはありませんでした。
あまり有名ではありませんが、「筑豊のこどもたち」の続編があると伺いました。内容はもう少し悲惨だとか・・
どんな本だろうと思って調べてみましたが・・・

名前からしてもう・・・見ない方が良いと思いました。
失業者であふれかえった街、町の主な基幹産業が鉱害復旧事業位しかない・・そんな地域ですから、あまり地域の歴史を大々的にアピールすることは今までありませんでした。
そんなこんなで現在ちょっと観光地っぽくなってきた筑豊地区ですが、もしも観光旅行で訪れても良いかなと言う方がいるのなら、事前に「筑豊のこどもたち」を見ることをお勧めします。
大抵の市立図書館などの蔵書としてあると思います。少なくとも、食べ物を粗末にする事は無くなるでしょう。
何だか悲しくなってきたので、少し話題を変えましょう。

破たんしてしまった貝島炭鉱についてですが、創業者貝島太助の後継者、貝島太市について自費出版された方がいます。
「赤心の人」というタイトルですが、赤心とは「嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。まごころ。」という意味だそうです。
現在のように労働者の権利が守られていなかった時代、貝島太市は自社で働く労働者を大切にしました。
労働者の子供たちのための小学校を整備し、衣類も提供、学校に来ただけでご褒美としてお米2合を買えるだけの奨学金を与えたようです。(そうしないと、親が家業の手伝いをさせて学校に来させなくなるためでもありました。)
親御さんが炭鉱の落盤事故で孤児になった児童においては15歳になるまでは貝島炭鉱が責任をもって面倒を見ました。
また、未亡人になった夫人、老人も希望する者は貝島家運営の孤児院で職を貰えたようです。
学問することの重要性も理解していたようで、修学資金制度も作っていたようです。
私の祖父の実家は現在の宮若市(当時の貝島炭鉱のおひざ元、宮田町)の零細農家の長男でした。
しかしながら、祖父は何故か戦前に東京の大学を出ています。片田舎の零細農家ではそんな費用の捻出も難しいのではないかと思うのですが、もしかしたら、私の祖父は貝島炭鉱の修学資金を得て大学を出た可能性があるのではないかと思っています。

写真は大辻炭鉱に遺る数少ない建物(変電所?)
その根拠ですが、祖父は実家の資産は一番末の弟にすべて譲っており、私の祖父自身は戦後長く貝島家運営の大辻炭鉱の関連施設で働いていました。修学資金を借りた代わりに返済する必要もあってわざわざ福岡に戻って筑豊の地で仕事をしたのではないか?と考えていますが、そのような事実を照らし合わせてもこの仮説を補完するものだと思っています。(私の父にその辺を聞いてみたのですが、「さぁ?知らん。」とのことでしたwww)
祖父はかつて私が育った街の名士だったようです。おかげで私の父も(筑豊地区に居るのに)祖父のおかげで裕福に暮らせたようです。私も幸い大学まで行かせてもらうことが出来ました。現在はフェリーだけど、たまにスウィートルームを使えるくらいの贅沢は出来ています。
私以外にも、最後には消滅してしまった炭鉱実業家の修学資金があったからこそ今の生活が成り立っているという人も多数いるのではないかと思っています。(親御さんのルーツが筑豊地区にあったという方がいたら、その辺を調べてみたらいかがでしょうか?)
最後に「にあんちゃん」という映画のオープニング映像を張っておきます。
佐賀県にあった零細炭鉱が舞台です。戦後日本に渡ってきて、その後両親とも亡くなってしまった朝鮮人孤児たちが主役です。
昭和30年代にあった労働争議の事、また零細炭鉱で働く人たちの貧困の様子などをきわめて中立な立場で描いています。
映画の中では主人公たちは終始一貫して赤貧生活から浮上のきっかけさえ見せずに終わっていくのですが、不必要に気が重くならず、非常にすっきりとした気分で見られる映画です。
トロッコや列車なども出てくるし、鉱山ヲタや鉄道ヲタの方も楽しめそうです。
私は浜松市図書館で見ることが出来ましたが、当時は文部大臣賞を受賞した作品でもあったそうですから、案外借りることが出来るかも。機会あれば1度鑑賞することをお勧めします。



今回私の生まれ育った故郷筑豊を観光してきました。
昭和30年代に起こったエネルギー革命により、最全盛期には大小合わせて200から300はあったとされる炭鉱のすべてが閉山、すっかり寂れきった地域と言う認識ではありましたが・・・

NHKの連続テレビ小説「花子とアン」で、加納伝助のモデル伊藤伝右衛門が再び脚光を浴びるようなって、筑豊地方の自治体も町おこしの題材にできないだろうかと頭をひねっているようです。
実際久しぶりに飯塚市周辺を訪れてみたところ、観光用のパンフレットがそこここに置いてありました。
これは私が学生時代には考えられなかったことです。

皆さんも小学校の社会科の授業でも習ったのではないかと思いますが、八幡製鉄所は中国大陸に近く、背後に筑豊炭田があり、容易に石炭を調達できるという地理的なメリットがあったと言うことから当時の洞海湾に面した寒村八幡村に作られました。

それが現在の政令指定都市北九州市の基幹産業となり、筑豊炭田も隆盛を極めます。
そんな筑豊炭田ですが、ところで「筑豊御三家」と言う言葉をご存知でしょうか?筑豊炭田で財を成した地元系資本をそのように称していました。
御三家とは麻生、安川、貝島の三家でした。
その他の産炭地域(北海道、常磐地方など)と違って筑豊炭田は地元系資本が幅を利かせていたのが特徴だと思います。その理由は諸説あるようです。
そもそもこの地域で採れる石炭は江戸時代の福岡藩、小倉藩の頃から製塩のための燃料などに使用され、藩の重要な収入源になっていたようです。

西南戦争で明治政府軍が九州入りした時にこの地域で盛んに石炭が掘られていることが分かり、そこからようやく三井、住友、三菱などの財閥が進出してきたと伝えられています。中央資本の進出が遅れたのが地元系資本が大きくなった主な理由の一つだったという解釈もあるようです。

ちなみに麻生家とは御存じ政治家麻生太郎さんの御実家です。
麻生家は筑豊地方でも重要な優良炭鉱を抱えており、エネルギー革命が迫って来た頃には同地域にある優良な石灰石に目を付け、セメント事業の基礎を作り上げました。

JR船尾駅のすぐ傍にこんなのがあります。現在も盛業中です。麻生グループを中核をなす事業のようです。
セメント業を興したおかげで麻生炭鉱閉山に当たって、殆ど失業者を出さずに済んだようです。
しかし、ただただ儲かることに集中せず、地元への貢献も忘れていなかったようです。

飯塚地区は明治大正時代はきちんと整備された医療機関がありませんでした。炭鉱事故も多く、労働者の怪我も多いことから私財を投じて医療機関を設立しました。
後に炭鉱労働者だけでなく、一般市民へも解放して現在の飯塚病院へと大きくなっていったようです。(注;飯塚病院は新飯塚駅前に立地しており、いかにも市立病院のように見えますが、麻生さんちが経営する個人病院麻生飯塚病院なのです。)

その他飯塚市内に公園等を整備、市に寄付などもしています。(写真は勝盛公園)

そして安川家を創設した安川敬一郎氏が残した業績はと言うと・・

明治専門学校(現 九州工業大学)設立・・・

安川電機設立・・・

黒崎播磨(地元では黒崎窯業の方が通りが良いと思いますが)設立・・・

それから九州製鋼(後の八幡製鉄所)設立・・・
その他九州鉄道創立(現在のJR九州鉄道路線)などなどの業績を残しました。

それぞれに実績を残してこられたようですが、こちらの伊藤伝右衛門さんの立ち位置はどうなるの?という疑問にお答えしますと、いわゆる筑豊御三家が麻生、安川、貝島だとすれば、伊藤家はそれに続く財力を誇っていたようです。
伝右衛門さんの残したものは先のブログ記事に書いたので、改めて書くことはしませんが、今回の旅行の時はあえて近所に通りがかって写真を撮ってきました。

そのひとつがこれ、嘉穂東高校です。

伊藤伝右衛門の土地と建物の寄付によって設立されました。


さらに伊藤伝右衛門邸の付近にある幸袋小学校の講堂です。これも伝右衛門氏の寄付によるものです。
この講堂は観光ガイドマップなどには載せられていません。現存しているかどうかちょっと不安でしたが、見つけたときはおぉっ!まだ遺っているのね!!と喜びました。
違うアングルからも写真を撮りたかったけど、最近は部外者が学校に敷地に踏み入れることは許されず、この1枚しか撮れませんでした。
その伊藤家ですが、昭和に入る頃には福岡県中間市に古河鉱業と共同出資で大正鉱業を設立しました。そして同地区で中鶴炭鉱の経営に乗り出しました。また石炭掘削機械の製造などを行う幸袋工作所を設立、やがて規模を拡大していくなど、両事業とも順調に拡大していきました。
その2つの事業はそれぞれ伊藤家に養子入りした子孫の方々が継承しましたが、その後どうなったかと言いますと・・・

優良鉱床を持つ中鶴炭鉱をもってしても、エネルギー革命の荒波に抗しきれず、多額の赤字を出しながら昭和39年に閉山。それとともに大正鉱業は解散しました。

幸袋工作所は現在幸袋テクノと言う名称で盛業中ではあります。が、しかしどのような経緯があったか分かりませんが(この辺の詳細を記した書物なども目にしたこともありません)、昭和38年に伊藤家は退陣に追いやられます。それとともに幸袋工作所は日鉄鉱業の傘下に入りました。この時に幸袋工作所と伊藤伝右衛門邸は伊藤家の手を離れ、炭鉱実業家としての伊藤家は終焉を迎えたようです。
??・・・なんだかきな臭くなってきましたね・・

それでは御三家の最後の一つ貝島家はどうだったのかと言いますと・・・


こちらも優良鉱床を持つ大之浦炭鉱(福岡県宮若市)や大辻炭鉱(福岡県中間市)などの経営に携わってきましたが、晩年まで炭鉱業専業であったことも災いして昭和51年大之浦炭鉱の閉山を持って会社は解散、消滅しました。

当時本拠地であった宮田町でもその痕跡を残すものは現在の宮田石炭記念館(閉校した貝島家設立の旧
きっと立派だったんじゃないかと思われる建物も消滅しています。
実は筑豊地区の中央資本経営では無かった中小炭鉱のほとんどすべてが会社整理(または破たん)など、悲惨な末路をたどりました。(ひどいものになるとある日従業員が出勤してみると、炭鉱幹部が夜逃げして会社がもぬけの殻だったり・・・ww)
昭和30年代中ごろからは町中に元炭鉱夫の失業者があふれかえりました。
私も小学校の社会科の授業で地域の歴史としてこれらの史実を教わりました。
こんな悲しい、余り良い話でもないあれこれの事ですが、現在も知る手がかりがあります。

土門拳の「筑豊のこどもたち」という写真集です。
昭和30年代の斜陽化著しい筑豊地区の子供たちを撮った写真集です。


閉山した炭鉱の殆ど廃屋に近いような炭住(炭鉱住宅)に住んでいるこの姉妹を中心に構成した写真集ではありますが、土門拳の「顔が垢じみているから洗っておいでと言ったのだが、顔を洗う金たらいも無かった」と言う注釈も結構身につまされます。

その他いろいろな子供たちが出てきます。
このページはボタ山でまだ燃料になりそうな石炭の燃えカスを探しに来た子供たち。
左のページの女の子は着ているセーターが明らかに小さいのが分かると思います。

内容は注釈を読んだらわかりそうなもの。親御さんが失業してしまって、学校に弁当を持ってこれない小学生が多数いたのです。
その他一家離散もしくは育児放棄のため、乳児院に集められた子供たちの写真・・・
何も考えていない小学校時代の私でも、少なくとも実家は裕福な方だと言うことは分かっていたので、さすがに子供の頃はとうとうこの写真集を手に取って見ることはありませんでした。
あまり有名ではありませんが、「筑豊のこどもたち」の続編があると伺いました。内容はもう少し悲惨だとか・・
どんな本だろうと思って調べてみましたが・・・

名前からしてもう・・・見ない方が良いと思いました。
失業者であふれかえった街、町の主な基幹産業が鉱害復旧事業位しかない・・そんな地域ですから、あまり地域の歴史を大々的にアピールすることは今までありませんでした。
そんなこんなで現在ちょっと観光地っぽくなってきた筑豊地区ですが、もしも観光旅行で訪れても良いかなと言う方がいるのなら、事前に「筑豊のこどもたち」を見ることをお勧めします。
大抵の市立図書館などの蔵書としてあると思います。少なくとも、食べ物を粗末にする事は無くなるでしょう。
何だか悲しくなってきたので、少し話題を変えましょう。

破たんしてしまった貝島炭鉱についてですが、創業者貝島太助の後継者、貝島太市について自費出版された方がいます。
「赤心の人」というタイトルですが、赤心とは「嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。まごころ。」という意味だそうです。
現在のように労働者の権利が守られていなかった時代、貝島太市は自社で働く労働者を大切にしました。
労働者の子供たちのための小学校を整備し、衣類も提供、学校に来ただけでご褒美としてお米2合を買えるだけの奨学金を与えたようです。(そうしないと、親が家業の手伝いをさせて学校に来させなくなるためでもありました。)
親御さんが炭鉱の落盤事故で孤児になった児童においては15歳になるまでは貝島炭鉱が責任をもって面倒を見ました。
また、未亡人になった夫人、老人も希望する者は貝島家運営の孤児院で職を貰えたようです。
学問することの重要性も理解していたようで、修学資金制度も作っていたようです。
私の祖父の実家は現在の宮若市(当時の貝島炭鉱のおひざ元、宮田町)の零細農家の長男でした。
しかしながら、祖父は何故か戦前に東京の大学を出ています。片田舎の零細農家ではそんな費用の捻出も難しいのではないかと思うのですが、もしかしたら、私の祖父は貝島炭鉱の修学資金を得て大学を出た可能性があるのではないかと思っています。

写真は大辻炭鉱に遺る数少ない建物(変電所?)
その根拠ですが、祖父は実家の資産は一番末の弟にすべて譲っており、私の祖父自身は戦後長く貝島家運営の大辻炭鉱の関連施設で働いていました。修学資金を借りた代わりに返済する必要もあってわざわざ福岡に戻って筑豊の地で仕事をしたのではないか?と考えていますが、そのような事実を照らし合わせてもこの仮説を補完するものだと思っています。(私の父にその辺を聞いてみたのですが、「さぁ?知らん。」とのことでしたwww)
祖父はかつて私が育った街の名士だったようです。おかげで私の父も(筑豊地区に居るのに)祖父のおかげで裕福に暮らせたようです。私も幸い大学まで行かせてもらうことが出来ました。現在はフェリーだけど、たまにスウィートルームを使えるくらいの贅沢は出来ています。
私以外にも、最後には消滅してしまった炭鉱実業家の修学資金があったからこそ今の生活が成り立っているという人も多数いるのではないかと思っています。(親御さんのルーツが筑豊地区にあったという方がいたら、その辺を調べてみたらいかがでしょうか?)
最後に「にあんちゃん」という映画のオープニング映像を張っておきます。
佐賀県にあった零細炭鉱が舞台です。戦後日本に渡ってきて、その後両親とも亡くなってしまった朝鮮人孤児たちが主役です。
昭和30年代にあった労働争議の事、また零細炭鉱で働く人たちの貧困の様子などをきわめて中立な立場で描いています。
映画の中では主人公たちは終始一貫して赤貧生活から浮上のきっかけさえ見せずに終わっていくのですが、不必要に気が重くならず、非常にすっきりとした気分で見られる映画です。
トロッコや列車なども出てくるし、鉱山ヲタや鉄道ヲタの方も楽しめそうです。
私は浜松市図書館で見ることが出来ましたが、当時は文部大臣賞を受賞した作品でもあったそうですから、案外借りることが出来るかも。機会あれば1度鑑賞することをお勧めします。
スポンサーサイト
コメント
食の事
今も昔も、個人的に衣食住、中でも食が最も大事な事だと思っています。
北海道の炭鉱町でもほぼ同じような光景、いや冬は雪深くなる分なおさら
きびしい状態だった事、親、祖父母から聞いております。
いまでも、母親に聞いたりしますが、どん底のようでしたよ。かつては地主の
富豪でしたが、あの農地解放とかの卑劣な救済の無い勝手法のおかげで
味わったどん底だそうです。
父方の方は食事に困ったことは一度もなかったそうで、恵まれていた、と申して
おりました。お寺だったからでしょうか。それでも、金銭がほぼ入らなかったので
住職兼教職に就いていたそうです。
北海道の炭鉱町でもほぼ同じような光景、いや冬は雪深くなる分なおさら
きびしい状態だった事、親、祖父母から聞いております。
いまでも、母親に聞いたりしますが、どん底のようでしたよ。かつては地主の
富豪でしたが、あの農地解放とかの卑劣な救済の無い勝手法のおかげで
味わったどん底だそうです。
父方の方は食事に困ったことは一度もなかったそうで、恵まれていた、と申して
おりました。お寺だったからでしょうか。それでも、金銭がほぼ入らなかったので
住職兼教職に就いていたそうです。
Re: 食の事
サッピエロさん、こんにちは。
私はエネルギー革命は、生産過剰でだぶついた石油をアメリカから押し付けられたからやむを得ず石炭から石油へ変化をせざるを得なかったというように解釈していました。
しかし、最近よくよく調べてみると昭和30年代頃以降は国内炭はコストの面で太刀打ちできなくなっていたという側面もあるようですね。
義理の母が幼少の頃、地元には三菱の炭鉱があったそうです。
三菱で働く工夫さんの生活は零細炭鉱の工夫さんのそれよりも遥かに豊かだったそうです。
しかし三菱の鉱山の幹部の子弟は高校を卒業すると筑豊地区を出て行って戻ることは無かったとのこと。
ヤマが採算が合っていた頃でも、上層部は将来を見据えた行動をとっていたのでしょう。しかし、閉山に関しては工夫さんは新たな職場を与えてもらって失業することは無かったそうです。
ちなみに私の母親方の祖母の実家も地主さんだったようです。農地改革ではその家に住む人の人数で残される農地も決まっていたそうで、祖母の実家はほぼ農地を失ったのですが、情報を先に仕入れた地主さんの中には大急ぎで親類を集めて人数を増やして乗り切った猛者が居たそうです。
私はエネルギー革命は、生産過剰でだぶついた石油をアメリカから押し付けられたからやむを得ず石炭から石油へ変化をせざるを得なかったというように解釈していました。
しかし、最近よくよく調べてみると昭和30年代頃以降は国内炭はコストの面で太刀打ちできなくなっていたという側面もあるようですね。
義理の母が幼少の頃、地元には三菱の炭鉱があったそうです。
三菱で働く工夫さんの生活は零細炭鉱の工夫さんのそれよりも遥かに豊かだったそうです。
しかし三菱の鉱山の幹部の子弟は高校を卒業すると筑豊地区を出て行って戻ることは無かったとのこと。
ヤマが採算が合っていた頃でも、上層部は将来を見据えた行動をとっていたのでしょう。しかし、閉山に関しては工夫さんは新たな職場を与えてもらって失業することは無かったそうです。
ちなみに私の母親方の祖母の実家も地主さんだったようです。農地改革ではその家に住む人の人数で残される農地も決まっていたそうで、祖母の実家はほぼ農地を失ったのですが、情報を先に仕入れた地主さんの中には大急ぎで親類を集めて人数を増やして乗り切った猛者が居たそうです。
炭住
U-BOATさんに筑豊のご説明をしていただき、ありがとうございました。
筑豊炭田の成功者のその後を知ることができ、大変に勉強になりました。筑豊のヤマの主は義に厚い篤志家であったことがよく分かりました。昨今の強欲なマネー資本主義の成功者には見習って欲しいものです。
私も福岡県が郷里ですが、筑豊以外にも炭鉱を多数擁し、また、阪九フェリーが発着する北九州は「鉄は国家なり」で、額に汗して稼ぐ人とその家族が大勢いたところでした。企業城下町はあちこちにあり、社宅住まいも当たり前、家庭も巻き込んだ日本的会社の典型例だったと思います。
大分、前ですが、映画フラガールのロケ地巡りで、福島のいわきをドライブしました。炭鉱住宅を見て、自分もかって住んだ木造の長屋の社宅を思い出しました。昭和の貧しくも賑やかな時代を象徴しているように感じました。筑豊も炭鉱を舞台にした小説、映画は「青春の門」という大作がありますね。
来週は愛車の13年目車検です。スタンブッシュやブレーキキャリパーの交換をディーラーから言われていて頭の痛い問題です。
筑豊炭田の成功者のその後を知ることができ、大変に勉強になりました。筑豊のヤマの主は義に厚い篤志家であったことがよく分かりました。昨今の強欲なマネー資本主義の成功者には見習って欲しいものです。
私も福岡県が郷里ですが、筑豊以外にも炭鉱を多数擁し、また、阪九フェリーが発着する北九州は「鉄は国家なり」で、額に汗して稼ぐ人とその家族が大勢いたところでした。企業城下町はあちこちにあり、社宅住まいも当たり前、家庭も巻き込んだ日本的会社の典型例だったと思います。
大分、前ですが、映画フラガールのロケ地巡りで、福島のいわきをドライブしました。炭鉱住宅を見て、自分もかって住んだ木造の長屋の社宅を思い出しました。昭和の貧しくも賑やかな時代を象徴しているように感じました。筑豊も炭鉱を舞台にした小説、映画は「青春の門」という大作がありますね。
来週は愛車の13年目車検です。スタンブッシュやブレーキキャリパーの交換をディーラーから言われていて頭の痛い問題です。
Re: 炭住
シベリア特急さん、こんにちは。
筑豊地方宮若市(かつての宮田町と若宮町)のご年配の方が「若い人が貝島の名前も知らないなんて・・・」と嘆く理由を自分なりに調べてみたらこんな感じになりました。
景気の良い時代の話はいくらでも語り継がれるのですが、斜陽化の時代の事は案外誰も触れようとしないので、その辺はもしかしたら間違いがあるかもしれません、ご了承ください。
http://meduboat.blog102.fc2.com/blog-entry-655.html
こちらの記事はやはり鉱山を擁していた新居浜市のあれこれを旅行記にしました。別子銅山のことをいろいろと調べてみました。閉山まで常に順風満帆かと思いきや、住友の経営なのに明治維新の時、新政府によって勝手に差押えされたり、また鉱石の品位が落ちてきたのに伴い採算性を合わせるのにかなり苦労をしたことが分かりました。
あちらは住友が鉱山経営の限界を早くに気付き周辺産業を育てておいたことが功を奏したようですね。
住友のかなり立派な社宅がまだ残っていますが、多分今残るものすべてを後世まで残すことはなさそうなので、早めの見学をお勧めしますよ。
筑豊地方宮若市(かつての宮田町と若宮町)のご年配の方が「若い人が貝島の名前も知らないなんて・・・」と嘆く理由を自分なりに調べてみたらこんな感じになりました。
景気の良い時代の話はいくらでも語り継がれるのですが、斜陽化の時代の事は案外誰も触れようとしないので、その辺はもしかしたら間違いがあるかもしれません、ご了承ください。
http://meduboat.blog102.fc2.com/blog-entry-655.html
こちらの記事はやはり鉱山を擁していた新居浜市のあれこれを旅行記にしました。別子銅山のことをいろいろと調べてみました。閉山まで常に順風満帆かと思いきや、住友の経営なのに明治維新の時、新政府によって勝手に差押えされたり、また鉱石の品位が落ちてきたのに伴い採算性を合わせるのにかなり苦労をしたことが分かりました。
あちらは住友が鉱山経営の限界を早くに気付き周辺産業を育てておいたことが功を奏したようですね。
住友のかなり立派な社宅がまだ残っていますが、多分今残るものすべてを後世まで残すことはなさそうなので、早めの見学をお勧めしますよ。
写真説明の訂正希望
貝島本社前のバス停の写真説明の中で、宮田石炭記念館(閉校した貝島家設立の旧宮田小学校の校舎を利用していますとありますが、旧大之浦小学校に訂正して欲しいです。
Re: 写真説明の訂正希望
隼(仮)さん、初めまして。
御指摘ありがとうございます。校正しました。よくよく考えてみたら、宮田小学校は現在もちゃんとありますね。
コメントをいただけると励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。
御指摘ありがとうございます。校正しました。よくよく考えてみたら、宮田小学校は現在もちゃんとありますね。
コメントをいただけると励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。