平成26年8月 阪九フェリーで日帰り旅行 Vol.2
この記事はこちらからの続きです。

翌朝です。
この時間に起床。

午前8時前には寝床に着いたから、眼醒めもパッチリw
・・・と言いたいところだけど、午前4時半にアラームをセットしたつもりで曜日設定を間違っていました。
いつもの通りの午前5時、本日の予定より30分遅れの起床になってしまいました。

しょうがない、今日は朝食をゆっくり食べる暇はなさそうだ。

気を取り直すつもりでまず風呂に行ったのですが・・・

外を見たらなんと雨!(天気予報では北九州地方は晴れのち雨だったはずなのに!!)
一応雨具を用意しているんだけど、テンション下がるなー・・・

風呂から上がったところで午前5時半過ぎ。
寝床の片づけをしました。この日は浴衣の使用は無し。

午前6時前くらいに鍵を返却して中央公室エリアに待機。


定刻午前6時に下船。


ウヒー、雨だ。
テンションダダ下がりだ。
唐草模様の大きな風呂敷を抱えて無料送迎バスへ。

パラパラなのが不幸中の幸いだけど、せめてこれ以上悪くなることがありませんように。

小倉駅到着後は普通列車に乗って西へ向かいます。

と言っても、戸畑駅で下車。
そのまま若戸渡船へ。


その道すがらにある建物です。
何てこともない看板建築なのですが、このエリアは戸畑銀座と言う地名です。
海に面して日本水産のビルがあって、非常に景気が良かったところです。遊郭もありました。

何度もブログに登場しましたが、西鉄路面電車の戸畑渡し場停留場跡です。

若戸渡船、戸畑渡し場に到着しました。

船員さん向けの宿泊施設も一般の人も利用できるよと看板がありました。
しかし、この辺の民間の宿泊施設は1か月単位で2,3万円で借りることが出来るものもあるのですよ。
まさに鞄一つでそのまま入居状態です。

近代建築ヲタにとっては、ちょっと嬉しいパンフレットを発見しました。
ニッスイビルが一般に公開されているようです。
もしかしたら老朽化を理由に取り壊されるのではないかと心配していました。最近はこういうものも日の目を見るようになったと思います。

若戸渡船は日中だいたい1時間に4便程度運航されています。そうこうしているうちに改札が始まりました。



・・・と言ってもこの便の旅客は私1人だけ。
八幡製鉄所の景気が良くて北九州市の税収も多い時代だったら良かったのでしょうが、これでは渡船経営も厳しいと思います。

後部デッキは自転車を置くエリアになっています。現状では自転車通勤(通学)の人たちが若松―戸畑間の移動が出来なくなるために残されているようなものだと思います。

結局出航時間になっても私以外の旅客はやって来ず。

出港となりました。

あれが日本水産ビルですな。
今度時間を作って訪れてみよう。


雨脚が強くなっている気がするなー。

僅か3分程度の航海で若松側の渡し場に到着しました。

ターミナルを出てみると・・・

やっぱり雨脚が強くなっている。
曇りのち雨の天気予報を信じたのに・・・折り畳み傘も持ってきてないよ。
取り敢えず、若松駅まで歩こう。

やれやれ、上野海運ビルの前を通過。上野海運ビルの詳細についてはこちらをクリック。

旧古河鉱業ビル前を通過。
本野何年か前まではその隣に旧麻生鉱業ビル(政治家麻生太郎さんの御実家のグループ会社の一つです。)があったんですけどね。
マンションに建て替えられました。

海上警察の若松派出所も洋風建築でした。

石炭会館前を通過。
石炭会館と言う名前を遺しているのはこの建物のオーナーの心意気なのだそうです。

それ以外にも、保存状態のそれほどよくない歴史的建築物があったりします。
この建物も窓の形を見たら多分洋風建築だったのだろうと想像できます。
こうなると、あまり興味が無かったのですが、いざ無くなってしまうとがっかりするので、最近は記録しておくようになりました。

このエリアの1本裏側に道にあるこんな無骨な感じの建物は・・・

以前は病院だったものです。

無人だと思っていたのですが、意外にも電気が燈っていました。
いつか無くなってしまうかもしれないけど、石炭の積み出しでにぎわったこの町の繁栄の後を感じさせるものは今でも残っています。
そう考えると、ちゃんと写真に撮っておけばよかったなーと思ってしまう建物がいくつかあったんだなぁ。
雨も止まないかなぁ・・・

そんなことをぶつぶつ思いながら歩いているとこんな車が置いてあるのに気付きました。
多分初代コロナだと思います。もう復活は無理だろうな。

この看板はまだ健在だ。

昔は巨大な洋風建築だった若松駅に到着しました。
今じゃこんなこじんまりとした建物ですけどね。

それでは列車に乗ろう。
実は、本当はわざわざ無駄に若松にやってきたのは久しぶりに渡船に乗ってみたいとか、そんな理由だけではありませんでした。最近になって若松駅付近の住宅街の中にかなり立派な戦前のものと思われる和風住宅があるのに気づいてそれを見に来たくてやってきたのでした。
しかし、この雨じゃなぁ・・・
古いからどんなに立派な家でも家の価値は無いらしく、古屋付きの土地として売りに出されています。
出来ることなら今度来るときにはちゃんと写真に収めたい!縁がありますように・・・

せっかく遠回りしたのに意味がなかったなーと思いながら、途中の二島駅に着いた時の写真です。
そうだ!これを撮っておこうと思って写真を撮りました。

分かりますでしょうか??
もともとのホームが地盤沈下で沈んでいて、新しく嵩増ししているのです。
この辺は洞海湾の海底に向かって炭鉱があったとのこと。
この辺に鉱区を持っていた炭鉱と言うことは多分日炭高松ではないかと・・・
日炭高松の事はちょっと前の旅の備忘録に書きました。(詳細はこちらをクリック)

そして折尾駅に到着。ここで乗り換えです。
駅の目の前を堀川と言う川が流れています。正式には堀川運河。
かつて筑豊地区に鉄道が引かれていなかった頃、石炭の運送は遠賀川の水運に頼っていました。
遠賀川から洞海湾へのショートカットコースとして掘られた人工の河川です。

折尾駅の創業当時からの美しい洋風建築駅舎もとうとう姿を消しました。
再開発を着々と進めているようです。

北九州市は漫画家松本零時の出身地です。
工事用の看板に絵をかいていますね。折尾駅駅舎は現代工法で創業当時の駅舎を再現する予定のようです。がっかりさせないでくださいね、期待しています。

やってきた列車に乗り・・

友人と約束した駅に到着しました。
あー、まだ雨が降ってる。テンションダダ下がりだぁ。
やがて友人が来て、向かった先は・・・

アリババの洞窟ですw (アリババの洞窟の意味が分からないという方はこちらをクリック)
去年あったアメリカンバイクは姿を消していましたが、そこに国産倒産系メーカーのマーチン(大阪にあったようです)のバイクがありました。

一番手前の赤いバイクはダイハツがかつて作っていたミニバイクです。

やっと対面したよ。
会いたかったよ。今日はお前を連れて帰るからな。
あれや、これやお友達と楽しく歓談して・・・(具体的には大量にある不動車両をいかに効率よく私たちが死ぬまでに路上復帰させるかなどなどww)


最近出来た、意外に美味しいというインド人の方が経営するカレー屋で食事をしたら・・・

お昼の1時を回ったので出発することにしました。

付近を通過するときの様子です。
道路が左側に傾いているのに気付いた人は偉い。
もともとは右側のどぶ川の擁壁と同じ高さだったのですが、やはりここも炭鉱の鉱害の影響で沈んでしまいました。
ちょっと雨がひどいと水浸しです。

しかし、なんと嬉しいことに「曇りのち雨」の天気予報とは全く正反対に急に晴れてきました(嬉)!
帰りの船の出港までまだ時間があるので、向かった先は・・・

飯塚市内、旧国鉄幸袋線(昭和44年廃止)の幸袋駅跡。
前回(詳細はこちらをクリック)は閉園で間に合わなかったので、今回こそあそこに行くぞ!

旧幸袋駅前から目的地を見るの図。
左手の建物に注目。多分炭鉱景気華やかなりしころには何かの商店だかの中規模の洋風建築でした。
もう基礎もすっかり傾いているようなので、多分取り壊されてしまうでしょう。

そしてさらにその向こうには、これがあるのです。
旧伊藤伝右衛門邸です。(幸袋駅の目抜き通りにあったんですね)

嬉しいなぁ。子供のころから巨大なお屋敷があるのは知っていましたが、平成17年より飯塚市が買い取り、一般に公開されるようになりました。
平成26年9月までにNHK連続テレビ小説で放送された「花子とアン」に登場する炭鉱王「嘉納伝助」は伊藤伝右衛門がモデルとなっています。

かつて日鉄鉱業幸袋クラブの頃は年に1度数日程度しか市民に公開されていませんでしたが、現在は500円払えばじっくりと見させてもらえるのです。

今回は世に言う「白蓮事件」の舞台としても有名になってしまったこのお屋敷を見ながら、元地元民としての意見を述べさせてもらおうと思います。
この敷地面積約7570平方メートル、建物延床面積約1020平方メートルの規模を持つ伝右衛門邸は御存じ華族柳原燁子を迎え入れるために、日本建築の粋を集めて作られたもの。


当時経済的に苦境に立たされていた華族柳原家は、燁子氏を伊藤家に嫁に出すことで伝右衛門の経済的な支援を求めることが出来る、また幼少の頃より働きづめ、ツルハシ1本から巨万の富を得るようになった伝右衛門側にとっては(大正天皇と親類関係にある)華族柳原家とかかわりを持つことが出来ると双方に利益のある政略結婚と言われたようです。


玄関のすぐわきにある応接間です。

イギリス製と言われるダイヤモンドを模したステンドグラスが入っています。
まぁ、難しいのですけどね、柳原燁子は16歳の時にある華族と結婚しています。しかしそれは本人の全く本意ではなかったようで男児を1人もうけたものの、のちに離婚。今風に言うとバツイチの出戻り状態でした。
経済的に苦しんでいる柳原家としては戻ってきた燁子をいつまでも家に閉じ込めるわけにもいかず・・・
伝右衛門側もすでにあらゆる富と名声を手に入れているのに、そこで華族との結びつきは必要なんかい?と私のような平民は思うのですが、同じく地元資本たたき上げの炭鉱王麻生家(麻生太郎さんの御実家です)もまた天皇家とは遠い親類になるらしいから当時としては必要な事と思われていたのでしょうか。

伝右衛門さんは柳原燁子と結婚するにあたって、ちゃんと身辺整理をしたようです。

それまでこのお屋敷には伝右衛門と長年の付き合いのあるお妾さんがいらっしゃったようです。燁子氏との結婚に当たり、妾さんにはお屋敷から出て行ってもらうですが、それまでの面倒を見てくれた感謝の意も込めて、経済的に困窮せぬようにと相応の手切れ金を渡したようです。

しかし、柳原燁子氏にとってはありとあらゆる事が自分の思い通りにならないと収まらなかったようです。
伝右衛門は幼少のころから働きに働き詰めていたため、学校に通うことが出来ず、そのため字が読めませんでした。
旦那は学問が無い、字さえ読めない・・・、しかも屋敷の中の女性はみんな伝右衛門のお手付きww
しかもこんな田舎で粗野で刃傷沙汰ばかり怒っている・・どうしてこんなところに自分が居なくてはならないのか・・と言う感じだったのでしょう。

伝右衛門は柳原燁子の心を開こうと精一杯のことをしてあげました。

写真は燁子のために造ったともされる大分県別府市の別荘。
燁子氏が文芸サロンとしても使えるように用意してあげました。1970年代まで残っていました。
さらに燁子氏を福岡社交界の華として活躍させ、竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の歌集『踏絵』を伊藤家の財産から自費出版させました。
当時の人気画家であった竹久夢二に挿絵を描かせることの出来た背景には伝右衛門の影響力が大きかったようですし、出版にあたっては相当の出資があったようです。
さらに燁子氏には自由に暮らすことを許していました。ちなみに彼女の1か月のお小遣いは当時の金額で500円。現在の感覚だと約500万円(1日約16万円)。
うっかり1日お金を使わず昼寝して過ごしてしまったら、明日までに32万円どうやって使おうかなーみたいな感覚だったんじゃないでしょうか?

こんな逸話があります。
結婚式の日、伝右衛門が燁子を迎えに行くときには、当時でも珍しかった自動車を用意して柳原家に迎えに行きました。
しかし、式が終わった後も燁子はシクシクと部屋の片隅で泣いています。
「伝右衛門は年端も行かぬ娘だから実家を出て見知らぬ九州の地に行くのがつらいのだろう。大事にしてやろう。」と決意するのですが、当の燁子は平民のくせに私より先に車に乗ったのが許せないと泣いていたそうです。

母親を亡くした伝右衛門の親類の子供についても「この子は母親のぬくもりを知らないから抱いて寝てやってくれないか?」と燁子にお願いしたところ、燁子は「平民の子を抱いて寝るなんてこんな屈辱的なことはない。」と泣いたという話も残っています。
伝右衛門さん、よくブチ切れなかったね。偉いよ。

近年までの伝右衛門さんの世間での評価は「金の力で楚々(そそ)たる伯爵令嬢を買い取った狒々(ひひ)おやじ、目に一丁字無き田夫野人(でんぷやじん)(一つも字を知らない田舎者)、芸者遊びにうつつをぬかし、何人もの妾(めかけ)を蓄える」
であったのではないでしょうか?

昭和21年柳原燁子の駆け落ち事件を扱った「麗人」は特に主題歌が大ヒットし、また大正時代に書かれた柳原燁子がモデルとされる「真珠夫人」と言う小説もまた高評価だったようですが、その中で伝右衛門の人物像は、卑しく粗野な悪役に脚色して描かれたようです。
そして実際にそのイメージが定着していきます。

「フィクションとはいえ、虚も数を重ねると実になる。」
これはとある伝右衛門さんの事をいろいろと調べていらっしゃる郷土資料研究家の言葉なのですが、実際の柳原燁子の駆け落ち事件は当時どのように扱われたかと言うと・・・

(最近は有害図書扱いされているw)朝日新聞に燁子氏から伊藤家への決別状が載せられた当初は、燁子氏はそれほどにひどい目に遭ったのかと世間から同情されました。
しかし事の状況が明らかになるにつれて、形勢は逆転していきます。
柳原燁子と宮崎龍介の方が相当過酷なバッシングを受けたようです。
係る件は当時は姦通罪が適応される案件でした。宮崎龍介は自身が姦通罪で逮捕拘留されるのを恐れて燁子氏に決別状を書かせ、それを宮崎龍介が添削、社会問題化するためにわざわざ伊藤家ではなく新聞社に送り付けた・・・と言うのが真相です。
伝右衛門の体面にもかかわる大騒動になったのですが、結局のところ伝右衛門は二人に処分を望まず、そして正式に離婚が成立するまでは当初の約束であった柳原家への資金援助を行い、駆け落ちした柳原燁子への生活費支払いは欠かしませんでした。
個人的にはお小遣いとして月500万円くれるなら、生活費はいくらくれたんだろうとその辺に興味が行くのですが・・・私もスケールの小さい人間ですw

2階のこの部屋が柳原燁子の居室。(左手のふすまはかつて銀箔を貼っていたからこのような色に変色したようです。)
機嫌が悪い時は何日も出てこず、女中さんが部屋の前まで食事を届けに来たそうです。

私は随分と伝右衛門さんの方を持つように思われるかもしれませんが・・・
ここは私のブログだから、私の好きに書かせてもらうとして・・
伝右衛門さんが女遊びが好きだったという、前提がそもそも間違っているのではないかと思うのです。
時代は明治、大正時代。ちょっと前まで江戸時代。

時の権力者は一族が絶えないように正室、側室、お妾さん、たまたまその辺を通りがかった女の人(・・・は言い過ぎです)、ありとあらゆる女性に自分の子供を産ませました。
当時の華族制度は世襲制であったため、お世継ぎである男児を作るために華族階級の方々もそうしていました。(一夫一妻制の現在の考え方をそのまま当てはめることはできません。)
柳原燁子自身もまた妾の子でした。(この事は本人のプライドをひどく傷つけたようです。)

誰であれ、お世継ぎを産んだ女性が女性同士の権力争いから勝ち上がった時代です。
伝右衛門が本当に女遊びが好きでケダモノのように手当たり次第に襲うのなら、屋敷で働く女性はいなかったのではないかと推測しています。そもそも女性の人権を尊重しない人間なら女子教育の重要性に理解を示し、嘉穂郡立技芸女学校(現在の県立嘉穂東高校)設立のためにぽんっと全額資金提供したりもしないのではないでしょうか。
後述しますが、伝右衛門は子供が出来にくい体でした。何とかして後継者を作りたいと思っていたのではないかと私なりに愚考しています。

「花子とアン」関係の展示物があるスペースはこの人だかり。私は素通りw


いわゆる白蓮館という名称のこの建物は入らずじまい。
こう言っちゃなんですが、私は好き嫌いがはっきりしています。

先ほど「伝右衛門は子供が出来にくかったのではないか?」と書きましたが、その根拠があります。
この2人が駆け落ちしてほどなくした時、燁子の妊娠が判明します。多分「花子とアン」には出なかったと思いますが(見ませんので)、この子供を伝右衛門の子供として認知させて姦通罪適用から逃れようとしていたようです。(これ、本当)

駆け落ち事件に関して一切の弁明もせず、無言を貫いていた伝右衛門ですが、この時ばかりは「わしゃぁ子供が出来んのじゃぁ!!!!」と激怒したようです。
自身で「子供が作れる体ではない。」と分かっているとは言え、わざわざ公の場でそれを言うのはつらかったでしょう。
さらにそれを証明するために伝右衛門はお医者さんの診察を受けさせられ、「確かに子供はできませんな。」と太鼓判を押してもらったようです。男性としてかなりきつい仕打ちを受けています。

伊藤伝右衛門 主たる業績だけでも
明治39年 勲四等旭日章受賞
明治42年 筑豊石炭鉱業組合の常議員
明治43年 嘉穂郡立技芸女学校 創設にあたり資金を寄付
昭和8年 嘉穂銀行・嘉穂貯蓄銀行頭取
昭和11年 地元幸袋小学校に講堂を新築寄付
昭和20年 十七、筑邦、嘉穂、福岡貯蓄の四行合併にあたり、各行の思惑が絡む中難しい調整を行い、福岡銀行(現在も盛業中です)設立に尽力
その他「伊藤家育英会」を設立。 人材育成のための修学資金の基金創設などなど・・・
なのに戦後の評価が「ヒヒオヤジ」wwwww
伝右衛門さんはあまりに有名税を払いすぎたと思う。

逆にこちら柳原燁子氏。
かかる駆け落ち事件の後、柳原家から絶縁され、また宮内庁より華族追放処分を受けました。
その後は女性運動家として活躍したという記述を見ることが出来ますが、実際の生活は経済的に困窮していたようです。

写真は美智子皇后。
今上陛下との婚姻が決まった時の頃の写真。
唐突に美智子皇后の若かりし頃の写真を出したのは、実は燁子氏が絡んでくるからです。
・・・晩年の燁子氏は静かに暮らしておけば良かったのに、世間で今上陛下と美智子皇后のロマンスが伝えられるようになると、 裕福とはいえ、平民が皇室に入るのは許さぬと縁談が壊れるようあらゆる妨害活動を行ったようです。

白洲正子(御存じやはり華族出身の白洲次郎の妻)の自伝より
《(燁子氏より)ある夜勢こんで電話がかかって来た。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」》
白洲正子氏が「別にどうでも…」みたいな事を言うと「てめーじゃ話にならん!」とばかりに電話をガチャ切りしたそうです。
夫白洲次郎は最終的に東北電力会長まで上り詰め、裕福に生活していていました。 正子氏にとっては仮に自身も華族出身であるとは言え、実にどうでも良い他人の話だったのでしょう。
「体の芯まで真っ赤に染まった(共産主義の事です。 ドラマでは宮崎龍介役の男性は社会運動家と言う設定だったようですが、実際は共産主義運動をしていました)のに、そんな事を気にするのかとあきれてしまった」と回想しています。

写真は宮崎龍介。
燁子氏は右翼団体をけしかけまでして何とか正田家と公室の縁談を壊そうとしていたようです。
他人の結婚を半狂乱になって妨害しようとする妻を見て宮崎龍介は何を思ったでしょう。
せめて燁子氏も沈黙し、意見を求められて初めて「私には関係ないことで・・・」くらいにしておけば良かったのに、彼女は少々晩節をお汚し気味になったきらいがあるように思われます。
・・・しかして、時は下ること平成17年、この伊藤伝右衛門邸が一般公開されるにあたって、伊藤伝右衛門の子孫、柳原燁子の子孫の代表者の方が一般公開に向けて尽力した関係者の見守る中、固い握手を交わし、すれ違った両家の雪解けをアピールするイベントがあったそうです。
伝右衛門さんの子孫の方も白蓮の駆け落ち事件のテレビ番組特集があるたびに「またか・・・」と不愉快な気持ちになったそうです。しかし伝右衛門の「この件に関しては末代まで一切の口外は無用。」との言いつけを守り沈黙を貫いていました。
実際に飯塚市民からはそのようなテレビ番組があるたびに抗議の声がありました。
しかし今回の「花子とアン」では嘉納伝介は不器用だけど気の良いおじさん風に描写されています。伝右衛門さんの名誉回復にもつながって良かったのではないでしょうか。

最後に庭から屋敷を眺めるの図。

いろいろとグダグダ書いてきましたが、最後まで読んでいただいたら幸いです。
それからこのささやかなブログを通じて伝右衛門邸を現在まで美しく保存してくれた日鉄鉱業には感謝申し上げたいです。
この記事の続きはこちらをクリック

翌朝です。
この時間に起床。

午前8時前には寝床に着いたから、眼醒めもパッチリw
・・・と言いたいところだけど、午前4時半にアラームをセットしたつもりで曜日設定を間違っていました。
いつもの通りの午前5時、本日の予定より30分遅れの起床になってしまいました。

しょうがない、今日は朝食をゆっくり食べる暇はなさそうだ。

気を取り直すつもりでまず風呂に行ったのですが・・・

外を見たらなんと雨!(天気予報では北九州地方は晴れのち雨だったはずなのに!!)
一応雨具を用意しているんだけど、テンション下がるなー・・・

風呂から上がったところで午前5時半過ぎ。
寝床の片づけをしました。この日は浴衣の使用は無し。

午前6時前くらいに鍵を返却して中央公室エリアに待機。


定刻午前6時に下船。


ウヒー、雨だ。
テンションダダ下がりだ。
唐草模様の大きな風呂敷を抱えて無料送迎バスへ。

パラパラなのが不幸中の幸いだけど、せめてこれ以上悪くなることがありませんように。

小倉駅到着後は普通列車に乗って西へ向かいます。

と言っても、戸畑駅で下車。
そのまま若戸渡船へ。


その道すがらにある建物です。
何てこともない看板建築なのですが、このエリアは戸畑銀座と言う地名です。
海に面して日本水産のビルがあって、非常に景気が良かったところです。遊郭もありました。

何度もブログに登場しましたが、西鉄路面電車の戸畑渡し場停留場跡です。

若戸渡船、戸畑渡し場に到着しました。

船員さん向けの宿泊施設も一般の人も利用できるよと看板がありました。
しかし、この辺の民間の宿泊施設は1か月単位で2,3万円で借りることが出来るものもあるのですよ。
まさに鞄一つでそのまま入居状態です。

近代建築ヲタにとっては、ちょっと嬉しいパンフレットを発見しました。
ニッスイビルが一般に公開されているようです。
もしかしたら老朽化を理由に取り壊されるのではないかと心配していました。最近はこういうものも日の目を見るようになったと思います。

若戸渡船は日中だいたい1時間に4便程度運航されています。そうこうしているうちに改札が始まりました。



・・・と言ってもこの便の旅客は私1人だけ。
八幡製鉄所の景気が良くて北九州市の税収も多い時代だったら良かったのでしょうが、これでは渡船経営も厳しいと思います。

後部デッキは自転車を置くエリアになっています。現状では自転車通勤(通学)の人たちが若松―戸畑間の移動が出来なくなるために残されているようなものだと思います。

結局出航時間になっても私以外の旅客はやって来ず。

出港となりました。

あれが日本水産ビルですな。
今度時間を作って訪れてみよう。


雨脚が強くなっている気がするなー。

僅か3分程度の航海で若松側の渡し場に到着しました。

ターミナルを出てみると・・・

やっぱり雨脚が強くなっている。
曇りのち雨の天気予報を信じたのに・・・折り畳み傘も持ってきてないよ。
取り敢えず、若松駅まで歩こう。

やれやれ、上野海運ビルの前を通過。上野海運ビルの詳細についてはこちらをクリック。

旧古河鉱業ビル前を通過。
本野何年か前まではその隣に旧麻生鉱業ビル(政治家麻生太郎さんの御実家のグループ会社の一つです。)があったんですけどね。
マンションに建て替えられました。

海上警察の若松派出所も洋風建築でした。

石炭会館前を通過。
石炭会館と言う名前を遺しているのはこの建物のオーナーの心意気なのだそうです。

それ以外にも、保存状態のそれほどよくない歴史的建築物があったりします。
この建物も窓の形を見たら多分洋風建築だったのだろうと想像できます。
こうなると、あまり興味が無かったのですが、いざ無くなってしまうとがっかりするので、最近は記録しておくようになりました。

このエリアの1本裏側に道にあるこんな無骨な感じの建物は・・・

以前は病院だったものです。

無人だと思っていたのですが、意外にも電気が燈っていました。
いつか無くなってしまうかもしれないけど、石炭の積み出しでにぎわったこの町の繁栄の後を感じさせるものは今でも残っています。
そう考えると、ちゃんと写真に撮っておけばよかったなーと思ってしまう建物がいくつかあったんだなぁ。
雨も止まないかなぁ・・・

そんなことをぶつぶつ思いながら歩いているとこんな車が置いてあるのに気付きました。
多分初代コロナだと思います。もう復活は無理だろうな。

この看板はまだ健在だ。

昔は巨大な洋風建築だった若松駅に到着しました。
今じゃこんなこじんまりとした建物ですけどね。

それでは列車に乗ろう。
実は、本当はわざわざ無駄に若松にやってきたのは久しぶりに渡船に乗ってみたいとか、そんな理由だけではありませんでした。最近になって若松駅付近の住宅街の中にかなり立派な戦前のものと思われる和風住宅があるのに気づいてそれを見に来たくてやってきたのでした。
しかし、この雨じゃなぁ・・・
古いからどんなに立派な家でも家の価値は無いらしく、古屋付きの土地として売りに出されています。
出来ることなら今度来るときにはちゃんと写真に収めたい!縁がありますように・・・

せっかく遠回りしたのに意味がなかったなーと思いながら、途中の二島駅に着いた時の写真です。
そうだ!これを撮っておこうと思って写真を撮りました。

分かりますでしょうか??
もともとのホームが地盤沈下で沈んでいて、新しく嵩増ししているのです。
この辺は洞海湾の海底に向かって炭鉱があったとのこと。
この辺に鉱区を持っていた炭鉱と言うことは多分日炭高松ではないかと・・・
日炭高松の事はちょっと前の旅の備忘録に書きました。(詳細はこちらをクリック)

そして折尾駅に到着。ここで乗り換えです。
駅の目の前を堀川と言う川が流れています。正式には堀川運河。
かつて筑豊地区に鉄道が引かれていなかった頃、石炭の運送は遠賀川の水運に頼っていました。
遠賀川から洞海湾へのショートカットコースとして掘られた人工の河川です。

折尾駅の創業当時からの美しい洋風建築駅舎もとうとう姿を消しました。
再開発を着々と進めているようです。

北九州市は漫画家松本零時の出身地です。
工事用の看板に絵をかいていますね。折尾駅駅舎は現代工法で創業当時の駅舎を再現する予定のようです。がっかりさせないでくださいね、期待しています。

やってきた列車に乗り・・

友人と約束した駅に到着しました。
あー、まだ雨が降ってる。テンションダダ下がりだぁ。
やがて友人が来て、向かった先は・・・

アリババの洞窟ですw (アリババの洞窟の意味が分からないという方はこちらをクリック)
去年あったアメリカンバイクは姿を消していましたが、そこに国産倒産系メーカーのマーチン(大阪にあったようです)のバイクがありました。

一番手前の赤いバイクはダイハツがかつて作っていたミニバイクです。

やっと対面したよ。
会いたかったよ。今日はお前を連れて帰るからな。
あれや、これやお友達と楽しく歓談して・・・(具体的には大量にある不動車両をいかに効率よく私たちが死ぬまでに路上復帰させるかなどなどww)


最近出来た、意外に美味しいというインド人の方が経営するカレー屋で食事をしたら・・・

お昼の1時を回ったので出発することにしました。

付近を通過するときの様子です。
道路が左側に傾いているのに気付いた人は偉い。
もともとは右側のどぶ川の擁壁と同じ高さだったのですが、やはりここも炭鉱の鉱害の影響で沈んでしまいました。
ちょっと雨がひどいと水浸しです。

しかし、なんと嬉しいことに「曇りのち雨」の天気予報とは全く正反対に急に晴れてきました(嬉)!
帰りの船の出港までまだ時間があるので、向かった先は・・・

飯塚市内、旧国鉄幸袋線(昭和44年廃止)の幸袋駅跡。
前回(詳細はこちらをクリック)は閉園で間に合わなかったので、今回こそあそこに行くぞ!

旧幸袋駅前から目的地を見るの図。
左手の建物に注目。多分炭鉱景気華やかなりしころには何かの商店だかの中規模の洋風建築でした。
もう基礎もすっかり傾いているようなので、多分取り壊されてしまうでしょう。

そしてさらにその向こうには、これがあるのです。
旧伊藤伝右衛門邸です。(幸袋駅の目抜き通りにあったんですね)

嬉しいなぁ。子供のころから巨大なお屋敷があるのは知っていましたが、平成17年より飯塚市が買い取り、一般に公開されるようになりました。
平成26年9月までにNHK連続テレビ小説で放送された「花子とアン」に登場する炭鉱王「嘉納伝助」は伊藤伝右衛門がモデルとなっています。

かつて日鉄鉱業幸袋クラブの頃は年に1度数日程度しか市民に公開されていませんでしたが、現在は500円払えばじっくりと見させてもらえるのです。

今回は世に言う「白蓮事件」の舞台としても有名になってしまったこのお屋敷を見ながら、元地元民としての意見を述べさせてもらおうと思います。
この敷地面積約7570平方メートル、建物延床面積約1020平方メートルの規模を持つ伝右衛門邸は御存じ華族柳原燁子を迎え入れるために、日本建築の粋を集めて作られたもの。


当時経済的に苦境に立たされていた華族柳原家は、燁子氏を伊藤家に嫁に出すことで伝右衛門の経済的な支援を求めることが出来る、また幼少の頃より働きづめ、ツルハシ1本から巨万の富を得るようになった伝右衛門側にとっては(大正天皇と親類関係にある)華族柳原家とかかわりを持つことが出来ると双方に利益のある政略結婚と言われたようです。


玄関のすぐわきにある応接間です。

イギリス製と言われるダイヤモンドを模したステンドグラスが入っています。
まぁ、難しいのですけどね、柳原燁子は16歳の時にある華族と結婚しています。しかしそれは本人の全く本意ではなかったようで男児を1人もうけたものの、のちに離婚。今風に言うとバツイチの出戻り状態でした。
経済的に苦しんでいる柳原家としては戻ってきた燁子をいつまでも家に閉じ込めるわけにもいかず・・・
伝右衛門側もすでにあらゆる富と名声を手に入れているのに、そこで華族との結びつきは必要なんかい?と私のような平民は思うのですが、同じく地元資本たたき上げの炭鉱王麻生家(麻生太郎さんの御実家です)もまた天皇家とは遠い親類になるらしいから当時としては必要な事と思われていたのでしょうか。

伝右衛門さんは柳原燁子と結婚するにあたって、ちゃんと身辺整理をしたようです。

それまでこのお屋敷には伝右衛門と長年の付き合いのあるお妾さんがいらっしゃったようです。燁子氏との結婚に当たり、妾さんにはお屋敷から出て行ってもらうですが、それまでの面倒を見てくれた感謝の意も込めて、経済的に困窮せぬようにと相応の手切れ金を渡したようです。

しかし、柳原燁子氏にとってはありとあらゆる事が自分の思い通りにならないと収まらなかったようです。
伝右衛門は幼少のころから働きに働き詰めていたため、学校に通うことが出来ず、そのため字が読めませんでした。
旦那は学問が無い、字さえ読めない・・・、しかも屋敷の中の女性はみんな伝右衛門のお手付きww
しかもこんな田舎で粗野で刃傷沙汰ばかり怒っている・・どうしてこんなところに自分が居なくてはならないのか・・と言う感じだったのでしょう。

伝右衛門は柳原燁子の心を開こうと精一杯のことをしてあげました。

写真は燁子のために造ったともされる大分県別府市の別荘。
燁子氏が文芸サロンとしても使えるように用意してあげました。1970年代まで残っていました。
さらに燁子氏を福岡社交界の華として活躍させ、竹久夢二が挿絵を手がけた豪華な装丁の歌集『踏絵』を伊藤家の財産から自費出版させました。
当時の人気画家であった竹久夢二に挿絵を描かせることの出来た背景には伝右衛門の影響力が大きかったようですし、出版にあたっては相当の出資があったようです。
さらに燁子氏には自由に暮らすことを許していました。ちなみに彼女の1か月のお小遣いは当時の金額で500円。現在の感覚だと約500万円(1日約16万円)。
うっかり1日お金を使わず昼寝して過ごしてしまったら、明日までに32万円どうやって使おうかなーみたいな感覚だったんじゃないでしょうか?

こんな逸話があります。
結婚式の日、伝右衛門が燁子を迎えに行くときには、当時でも珍しかった自動車を用意して柳原家に迎えに行きました。
しかし、式が終わった後も燁子はシクシクと部屋の片隅で泣いています。
「伝右衛門は年端も行かぬ娘だから実家を出て見知らぬ九州の地に行くのがつらいのだろう。大事にしてやろう。」と決意するのですが、当の燁子は平民のくせに私より先に車に乗ったのが許せないと泣いていたそうです。

母親を亡くした伝右衛門の親類の子供についても「この子は母親のぬくもりを知らないから抱いて寝てやってくれないか?」と燁子にお願いしたところ、燁子は「平民の子を抱いて寝るなんてこんな屈辱的なことはない。」と泣いたという話も残っています。
伝右衛門さん、よくブチ切れなかったね。偉いよ。

近年までの伝右衛門さんの世間での評価は「金の力で楚々(そそ)たる伯爵令嬢を買い取った狒々(ひひ)おやじ、目に一丁字無き田夫野人(でんぷやじん)(一つも字を知らない田舎者)、芸者遊びにうつつをぬかし、何人もの妾(めかけ)を蓄える」
であったのではないでしょうか?

昭和21年柳原燁子の駆け落ち事件を扱った「麗人」は特に主題歌が大ヒットし、また大正時代に書かれた柳原燁子がモデルとされる「真珠夫人」と言う小説もまた高評価だったようですが、その中で伝右衛門の人物像は、卑しく粗野な悪役に脚色して描かれたようです。
そして実際にそのイメージが定着していきます。

「フィクションとはいえ、虚も数を重ねると実になる。」
これはとある伝右衛門さんの事をいろいろと調べていらっしゃる郷土資料研究家の言葉なのですが、実際の柳原燁子の駆け落ち事件は当時どのように扱われたかと言うと・・・

(最近は有害図書扱いされているw)朝日新聞に燁子氏から伊藤家への決別状が載せられた当初は、燁子氏はそれほどにひどい目に遭ったのかと世間から同情されました。
しかし事の状況が明らかになるにつれて、形勢は逆転していきます。
柳原燁子と宮崎龍介の方が相当過酷なバッシングを受けたようです。
係る件は当時は姦通罪が適応される案件でした。宮崎龍介は自身が姦通罪で逮捕拘留されるのを恐れて燁子氏に決別状を書かせ、それを宮崎龍介が添削、社会問題化するためにわざわざ伊藤家ではなく新聞社に送り付けた・・・と言うのが真相です。
伝右衛門の体面にもかかわる大騒動になったのですが、結局のところ伝右衛門は二人に処分を望まず、そして正式に離婚が成立するまでは当初の約束であった柳原家への資金援助を行い、駆け落ちした柳原燁子への生活費支払いは欠かしませんでした。
個人的にはお小遣いとして月500万円くれるなら、生活費はいくらくれたんだろうとその辺に興味が行くのですが・・・私もスケールの小さい人間ですw

2階のこの部屋が柳原燁子の居室。(左手のふすまはかつて銀箔を貼っていたからこのような色に変色したようです。)
機嫌が悪い時は何日も出てこず、女中さんが部屋の前まで食事を届けに来たそうです。

私は随分と伝右衛門さんの方を持つように思われるかもしれませんが・・・
ここは私のブログだから、私の好きに書かせてもらうとして・・
伝右衛門さんが女遊びが好きだったという、前提がそもそも間違っているのではないかと思うのです。
時代は明治、大正時代。ちょっと前まで江戸時代。

時の権力者は一族が絶えないように正室、側室、お妾さん、たまたまその辺を通りがかった女の人(・・・は言い過ぎです)、ありとあらゆる女性に自分の子供を産ませました。
当時の華族制度は世襲制であったため、お世継ぎである男児を作るために華族階級の方々もそうしていました。(一夫一妻制の現在の考え方をそのまま当てはめることはできません。)
柳原燁子自身もまた妾の子でした。(この事は本人のプライドをひどく傷つけたようです。)

誰であれ、お世継ぎを産んだ女性が女性同士の権力争いから勝ち上がった時代です。
伝右衛門が本当に女遊びが好きでケダモノのように手当たり次第に襲うのなら、屋敷で働く女性はいなかったのではないかと推測しています。そもそも女性の人権を尊重しない人間なら女子教育の重要性に理解を示し、嘉穂郡立技芸女学校(現在の県立嘉穂東高校)設立のためにぽんっと全額資金提供したりもしないのではないでしょうか。
後述しますが、伝右衛門は子供が出来にくい体でした。何とかして後継者を作りたいと思っていたのではないかと私なりに愚考しています。

「花子とアン」関係の展示物があるスペースはこの人だかり。私は素通りw


いわゆる白蓮館という名称のこの建物は入らずじまい。
こう言っちゃなんですが、私は好き嫌いがはっきりしています。

先ほど「伝右衛門は子供が出来にくかったのではないか?」と書きましたが、その根拠があります。
この2人が駆け落ちしてほどなくした時、燁子の妊娠が判明します。多分「花子とアン」には出なかったと思いますが(見ませんので)、この子供を伝右衛門の子供として認知させて姦通罪適用から逃れようとしていたようです。(これ、本当)

駆け落ち事件に関して一切の弁明もせず、無言を貫いていた伝右衛門ですが、この時ばかりは「わしゃぁ子供が出来んのじゃぁ!!!!」と激怒したようです。
自身で「子供が作れる体ではない。」と分かっているとは言え、わざわざ公の場でそれを言うのはつらかったでしょう。
さらにそれを証明するために伝右衛門はお医者さんの診察を受けさせられ、「確かに子供はできませんな。」と太鼓判を押してもらったようです。男性としてかなりきつい仕打ちを受けています。

伊藤伝右衛門 主たる業績だけでも
明治39年 勲四等旭日章受賞
明治42年 筑豊石炭鉱業組合の常議員
明治43年 嘉穂郡立技芸女学校 創設にあたり資金を寄付
昭和8年 嘉穂銀行・嘉穂貯蓄銀行頭取
昭和11年 地元幸袋小学校に講堂を新築寄付
昭和20年 十七、筑邦、嘉穂、福岡貯蓄の四行合併にあたり、各行の思惑が絡む中難しい調整を行い、福岡銀行(現在も盛業中です)設立に尽力
その他「伊藤家育英会」を設立。 人材育成のための修学資金の基金創設などなど・・・
なのに戦後の評価が「ヒヒオヤジ」wwwww
伝右衛門さんはあまりに有名税を払いすぎたと思う。

逆にこちら柳原燁子氏。
かかる駆け落ち事件の後、柳原家から絶縁され、また宮内庁より華族追放処分を受けました。
その後は女性運動家として活躍したという記述を見ることが出来ますが、実際の生活は経済的に困窮していたようです。

写真は美智子皇后。
今上陛下との婚姻が決まった時の頃の写真。
唐突に美智子皇后の若かりし頃の写真を出したのは、実は燁子氏が絡んでくるからです。
・・・晩年の燁子氏は静かに暮らしておけば良かったのに、世間で今上陛下と美智子皇后のロマンスが伝えられるようになると、 裕福とはいえ、平民が皇室に入るのは許さぬと縁談が壊れるようあらゆる妨害活動を行ったようです。

白洲正子(御存じやはり華族出身の白洲次郎の妻)の自伝より
《(燁子氏より)ある夜勢こんで電話がかかって来た。
「あなた、今度のことどう思う?」
「今度のことってナァーニ?」
「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」》
白洲正子氏が「別にどうでも…」みたいな事を言うと「てめーじゃ話にならん!」とばかりに電話をガチャ切りしたそうです。
夫白洲次郎は最終的に東北電力会長まで上り詰め、裕福に生活していていました。 正子氏にとっては仮に自身も華族出身であるとは言え、実にどうでも良い他人の話だったのでしょう。
「体の芯まで真っ赤に染まった(共産主義の事です。 ドラマでは宮崎龍介役の男性は社会運動家と言う設定だったようですが、実際は共産主義運動をしていました)のに、そんな事を気にするのかとあきれてしまった」と回想しています。

写真は宮崎龍介。
燁子氏は右翼団体をけしかけまでして何とか正田家と公室の縁談を壊そうとしていたようです。
他人の結婚を半狂乱になって妨害しようとする妻を見て宮崎龍介は何を思ったでしょう。
せめて燁子氏も沈黙し、意見を求められて初めて「私には関係ないことで・・・」くらいにしておけば良かったのに、彼女は少々晩節をお汚し気味になったきらいがあるように思われます。
・・・しかして、時は下ること平成17年、この伊藤伝右衛門邸が一般公開されるにあたって、伊藤伝右衛門の子孫、柳原燁子の子孫の代表者の方が一般公開に向けて尽力した関係者の見守る中、固い握手を交わし、すれ違った両家の雪解けをアピールするイベントがあったそうです。
伝右衛門さんの子孫の方も白蓮の駆け落ち事件のテレビ番組特集があるたびに「またか・・・」と不愉快な気持ちになったそうです。しかし伝右衛門の「この件に関しては末代まで一切の口外は無用。」との言いつけを守り沈黙を貫いていました。
実際に飯塚市民からはそのようなテレビ番組があるたびに抗議の声がありました。
しかし今回の「花子とアン」では嘉納伝介は不器用だけど気の良いおじさん風に描写されています。伝右衛門さんの名誉回復にもつながって良かったのではないでしょうか。

最後に庭から屋敷を眺めるの図。

いろいろとグダグダ書いてきましたが、最後まで読んでいただいたら幸いです。
それからこのささやかなブログを通じて伝右衛門邸を現在まで美しく保存してくれた日鉄鉱業には感謝申し上げたいです。
この記事の続きはこちらをクリック
スポンサーサイト
コメント
No title
おはようございます.
白蓮事件の考察のくだり,楽しく拝読いたしました.
あの時代は大なり小なりこういった政略結婚はあったと思いますし,
今では人権侵害と訴えられそうなことも,その時代では普通のことだったんでしょうね.
基盤となる境遇があまりにも違いすぎるとお互い不幸になる,ということでしょうか.
白蓮事件の考察のくだり,楽しく拝読いたしました.
あの時代は大なり小なりこういった政略結婚はあったと思いますし,
今では人権侵害と訴えられそうなことも,その時代では普通のことだったんでしょうね.
基盤となる境遇があまりにも違いすぎるとお互い不幸になる,ということでしょうか.
No title
アリババの洞窟は思わず垂涎ですね~。いいな~
U-BOATさんのコレクションなんですか!?
そういえば最近2つのTVコマーシャルでS301ぽいのがチラっと出ているのを見ました。
多分ラビットだと思うのですが、流行ってるんですかね。
九州には上の写真のコロナのようなお宝が見つかりやすいんでしょうか?
レストアしたくなってきます。
U-BOATさんのコレクションなんですか!?
そういえば最近2つのTVコマーシャルでS301ぽいのがチラっと出ているのを見ました。
多分ラビットだと思うのですが、流行ってるんですかね。
九州には上の写真のコロナのようなお宝が見つかりやすいんでしょうか?
レストアしたくなってきます。
Re: No title
あきらさん、おはようございます。
地元ではいわゆる白蓮事件のテレビ番組があるたびに「でも伝右衛門さんは良い人だった。」と言うお年寄りがいました。
今は故郷を離れているのですが、これを機会に改めてネットなどで調べてみました。
ネットでも明らかに憶測による記述もあったものだから、出所が確かなものをベースにこの記事を作ってみました。
しかし柳原燁子氏の肩を持ちたい人は徹底的に伝右衛門を叩いていますね。
嘉穂郡立技芸女学校の資金提供を全額負担したことに関しても「こともあろうに運営方針には一切関与しない約束をしていた」というニュアンスの記述を見つけました。
「金は出すが、口は出さない」はあの地域では特に高い評価を受けるあり方なんですけどね。
ちなみに伝右衛門邸には何人もボランティアガイドがいらっしゃって、それぞれに切り口の違うガイドをされるのでそういう点でも面白いらしいですよ。
地元ではいわゆる白蓮事件のテレビ番組があるたびに「でも伝右衛門さんは良い人だった。」と言うお年寄りがいました。
今は故郷を離れているのですが、これを機会に改めてネットなどで調べてみました。
ネットでも明らかに憶測による記述もあったものだから、出所が確かなものをベースにこの記事を作ってみました。
しかし柳原燁子氏の肩を持ちたい人は徹底的に伝右衛門を叩いていますね。
嘉穂郡立技芸女学校の資金提供を全額負担したことに関しても「こともあろうに運営方針には一切関与しない約束をしていた」というニュアンスの記述を見つけました。
「金は出すが、口は出さない」はあの地域では特に高い評価を受けるあり方なんですけどね。
ちなみに伝右衛門邸には何人もボランティアガイドがいらっしゃって、それぞれに切り口の違うガイドをされるのでそういう点でも面白いらしいですよ。
Re: No title
oink!さん、おはよございます。
ここにあるバイクの8割がたが独身の頃に居てもたってもいられず片っ端から引き込んでしまったものです。
誰のものか分からないバイクもあります。
コロナはブルーバードと同じくらい売れたはずですが、防錆処理がそれほど良くないのか残っていませんね。
この車もちょっと厳しいと思います。
ここにあるバイクの8割がたが独身の頃に居てもたってもいられず片っ端から引き込んでしまったものです。
誰のものか分からないバイクもあります。
コロナはブルーバードと同じくらい売れたはずですが、防錆処理がそれほど良くないのか残っていませんね。
この車もちょっと厳しいと思います。
再再再トライ
コメント届くでしょうか?
電車のデザインが素晴らしい。 博多行きの白黒ツートン車。
電車のデザインが素晴らしい。 博多行きの白黒ツートン車。
Re: 再再再トライ
サッピエロさん、こんばんは。
コメント届きましたよ。
FC2ブログも時々おかしいときがあって、ブログ記事の時間予約を設定していると勝手に早くにアップされてしまったり、逆にアップされなかったりという事がありました。
時間を置いて「サッピエロ」でコメントを投稿してみてください。
電車、この色合いが良いのか悪いのかわかりませんが、リーマンショックのころに新製された車両ですが、中はすごくチープな印象です。それから北九州空港を本拠地にしているスターフライヤーも真っ黒の機体です。
コメント届きましたよ。
FC2ブログも時々おかしいときがあって、ブログ記事の時間予約を設定していると勝手に早くにアップされてしまったり、逆にアップされなかったりという事がありました。
時間を置いて「サッピエロ」でコメントを投稿してみてください。
電車、この色合いが良いのか悪いのかわかりませんが、リーマンショックのころに新製された車両ですが、中はすごくチープな印象です。それから北九州空港を本拠地にしているスターフライヤーも真っ黒の機体です。